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硫黄島の戦い
米国海軍文書「硫黄島の奪取」

「硫黄島の戦い」のことを調べようとしたのは、硫黄島の戦いでは艦砲射撃が ピンポイントであることを今まで色々と英文記事で読んでおり、本当にそうであったのかと 疑問になって調べようとしたことがきっかけでした。その最中に「米国海軍」の文書

Capture of Iwo Jima (硫黄島の奪取)

に行き当たり、読んでいくうちに、確かにそうであることに確信を持つことになりました。 (これは第二章の末尾にある複数の写真から明白です。) それと同時に、日本語の Wikipedia

硫黄島の戦い - Wikipedia

に書かれているようなことには随分と嘘がありそうだと気づき、深入りすることになり、結局「米国海軍」 の文書を全訳することになりました。次のリンクから中に入れます。

硫黄島の奪取
(米国海軍文書「Capture of Iwo Jima」(硫黄島の奪取) の翻訳)
追加
なお、この文書はもともと秘密文書です。いつ頃公開されたのかに関しては記載がありませんが、インターネットの 上で公開されるようになったのは 2006 年 10 月 13 日以後です。この文書に最初に気がついたのが、2008 年 10 月ごろです。 これは米国海軍の歴史センターの図書館で公開されています。 Capture of Iwo Jima からリンクをたどれます。私が最初に気がついた時には読める文書は多くなかったのですが 今ではものすごく増えており、本当の図書館みたいに変貌しています。第二次大戦のことはもとより、ずっと新しいことまで読むことができます。

この文書「硫黄島の奪取」から色々な事がわかります。 その中の幾つかを以下でまとめることにしました。

  1. 一枚の写真
  2. 米国海軍の大型艦船は何隻沈んだか ?
  3. 日本軍の大型の火器は効果があったか ?
  4. 何故、日本軍の文書がなかったのか ?
  5. 硫黄島の戦いの経緯
一枚の写真

単に、日本語版の Wikipedia に書かれていることに嘘が多いのではなく、 多分日本人は米軍の側から見た「硫黄島の戦い」をほとんど 何も知らない可能性があります。例えば、日本語の Wikipedia の載っている次の写真です。

この写真のキャプションには「迫撃砲および重砲の攻撃により擱座したLVT」とあります。 (LVT に関しては日本語の Wikipedia (LVT - Wikipedia) に解説があります。) また「第七章 その他」に詳しい解説が載っています。

写真を見れば物々しい戦争が行われたかのように見えますが、実は全然見当違いです。 米軍は上陸のときにものすごく苦しみます。日本軍の攻撃による被害も甚大なものですが、 むしろ波と砂浜のせいで随分苦しみます。硫黄島は天然の要害なのです。 大きなうねりのせいで、片っ端から小型船舶、上陸用舟艇が沈没します。 (日本軍による砲撃で沈没する船舶はそれほど多くはないようです。) 水陸両用車もキャタピラ付でないのは全部動けなくなります。キャタピラ付きの車両でも 動けなくなるものが続出します。硫黄島の砂浜は火山性の砂浜で見かけは締まっているように見えますが、 タイヤがすぐにもめり込み、砂浜から脱出できなくなります。これは砂というよりは火山灰と言う方が近いようで、 車両にとって蟻地獄なのです。 そして砂浜はゴミだらけとなります。 上の写真は、そのゴミだらけとなったありさまです。

おわかりでしょうか ? 一枚の写真の示している内容が基本的に違ってきてしまいます。 米国海軍の文書はとても興味を引くものです。

米国海軍の大型艦船は何隻沈んだか ?

硫黄島上陸日を D デーと呼び、1 日前を D マイナス 1, 1 日後を D プラス 1 のように呼びます。 硫黄島上陸作戦の直接の準備は D マイナス 3 に始まり、D マイナス 1 に至るまで 上陸準備のための砲爆と偵察が実施されます。 D マイナス 2 の 9938 時にペンサコラが北東の海岸沖で砲火を浴びます。 ペンサコラには航空機が搭載されているので、小型船ではなく、前後関係から 駆逐艦ではないかと思います。このときは砲撃戦となりますが、一応ペンサコラは 無事なようです。

D マイナス 2 の 1100 時から 1145 時の間に東海岸沖の上陸用舟艇が、かなり被害を受けます。 これは米軍が上陸を開始しようとしていると日本軍が誤解して、 ありったけの火器で反応したことによります。 このとき駆逐艦とおぼしきロイツも被弾しています。司令官が重症を負いますが、船は 無事なようです。 (以上は「第一章 語り」の 1-13 の記述)

これ以外では D デーに至るまでに大型艦船が被害を受けたとの記述はないようです。 しかし D プラス 2 の夕闇に 50 機ほどの日本軍の航空機による攻撃があり、 自殺機に攻撃されて、護衛空母のビスマルク・シーが沈没します。 このとき乗船した将校 124 名、乗組員 836 名のうち生存できたのは、 将校 100 名、乗組員 513 名です。(以上は「第一章 語り」の 1-8 の記述) 本文では何名が戦死したのかの記述がないので

(124 - 100) + (836 - 513) = 347 名

が、ほぼ行方不明として処理されたと思われます。 一方「第六章 ロジスティック」の 6-9 に「海軍の戦闘による死傷者のまとめ」で詳細な記述があり、 「空母と護衛空母」の行方不明が 362 名としてあり、これが上記の 347 名に極めて近いことがわかります。 またこれ以外には 100 名を超えるような行方不明者がありません。 大型艦船が沈没するような場合、行方不明者が多量に出ることが想定されますから、 硫黄島作戦で沈没した米国海軍の大型艦船は護衛空母のビスマルク・シーのみであろうと 結論できます。

日本軍の大型の火器は効果があったか ?

D マイナス 3 よりも以前に高々度からの爆撃が数ヶ月続きますが、これではほとんど 日本軍の砲陣地などを破壊できなかったようです。日本軍の陣地は非常に小さく、鉄筋コンクリートで 固めており、しかもカモフラージュされていた。

しかし、D マイナス 2 の夕方には上陸海岸である東海岸を射程距離に収めている大砲の位置が確認されたようです。 写真撮影の結果ですが、これは D マイナス 2 に東海岸を偵察していた上陸用舟艇が ありったけの火器で攻撃を受けたことと関係しているかもしれません。 全部で 5 箇所の陣地が確認されました。 そのため、D マイナス 1 にこれらの陣地を破壊するために、 アイダホとテネシーに十字砲火が命令されています。 これは「第一章 語り」の 1-14 に記述されていることです。 結果がどうなったのかに関しては直接記述がありません。 「第六章 ロジスティック」の 6-10 に上陸隊の死傷者の詳細なデータがあり、 D デー (2 月 19 日) の戦死者が 76 名となっています。 その後の上陸隊の戦死者が毎日 200 名近くありますから、 D マイナス 1 における十字砲火によって、東海岸を射程距離においている大砲が破壊されたことが 確実です。

注意

アイダホとテネシーは戦艦であると思われます。 2 隻に十字砲火の命令が出た点から判断すると、この時ようやく戦艦が 陸の大砲の射程距離に入ったのだと思われます。 もしも、どちらかの艦船が沈没しないまでも大破しただけでも米国海軍の文書に登場するはずです。 従って、この点から判断しても守っていた日本軍に砲撃に卓越した人が少なかったと思われます。

これを裏付ける事実があります。D デー以後はできるだけ近距離から大砲の陣地を 破壊する命令が出ます。しかも、このときは十字砲火ではありません。 つまり、アイダホとテネシーの攻撃に対しての反撃がお粗末であったから、 意を強くして、至近距離からの砲撃に切り替えたのに相違ないのです。

追加: D デーにおける米軍の戦死者は多くはないですが、負傷兵は随分沢山います。 この中には大型の臼砲による負傷兵もいるはずです。 臼砲の位置確認は難しいので米軍の上陸時にはまだ多くが生きていたはずです。 しかし、浜辺を直接狙える大砲はなかったことは確実です。 臼砲は狙いが正確ではありませんが、大砲は狙いが正確で、もしも大砲が生きていれば、上陸用舟艇を何隻も撃沈できたはずで、 この場合には米軍に大量の戦死者が出たはずです。 上陸作戦は同時に多くの上陸用舟艇で一斉に浜辺に上陸を目指しますが、 これは上陸用舟艇が少々撃沈されても大多数の上陸隊が無傷で上陸できれば作戦が成功であるからです。 しかし、守る側からすれば大砲が生きていれば、何隻かは必ず直撃で撃沈できるはずで、 この場合には上陸軍の中に多量の戦死者が出たはずです。

また「第一章 語り」の 1-15 では

着目するに値する点は、浜辺の拠点が一旦確保されてからは、 我々の攻撃隊における死傷者 (casualties) の大多数は 激しくて正確な小火器 -- 小型の臼砲や手榴弾を含む -- によるものであったことである。

と書かれていますから、大型の火砲による戦死者は、それほど多くなかったことになります。

海から見える陣地に関しては古典的な直接の的打ち (まとうち) で破壊できます。 海から見えない陣地に関しても海軍による砲撃が効果があります。 この場合には上空から偵察機が、着弾を観測していないと意味がありません。 しかし、この目的のための専用の部隊があり、陣地の位置さえわかれば破壊することが 可能となります。

注意
偵察機が着弾を観測するためには、砲弾の弾道を目で追う必要があり、 発射の指示は偵察機で観測をする人が出します。また着弾するまでにかなり時間がかかるので、 偵察機は島の反対側から侵入する必要があり、ターゲットは上空から視認できる場所でないといけません。

以上のようにして、ほぼすべての大砲を破壊することができますが、 原理的に破壊することが不可能な場所があります。 これは崖の途中に設置された臼砲で、海から見えなければ海からの攻撃が不可能で、 また航空機による爆撃も難しいようです。 このような場所は、海兵隊が破壊しなければならなくなったようです。

「硫黄島の戦い」で米軍は 6000 名もの犠牲者を出しますが、 これは重砲によるよりは「小火器」によるものなのです。重砲では一旦使用すれば、その存在がばれてしまいます。 (口径の大きな砲では爆薬による白煙が立ち昇ります。) こうなると戦艦の艦砲射撃の餌食となるのは時間の問題となるようです。日本軍の重砲は極めて小さな防御施設に 隠匿されており、艦砲射撃の直撃を食わなければ、十分に持ちこたえられるようです。 これがまたたく間に破壊されていくようですから、硫黄島における艦砲射撃の精度はきわめて高いようです。

非常に精度が高いと思われる理由をもう少し説明します。 日本軍の陣地は分厚い鉄筋コンクリートでできていて、 土砂でこれが覆われていたようです。土砂はカモフラージュの目的もありますが、 砲爆から守る目的もあったのではないかと思われます。 そのため、攻撃するには最初に砲爆でこの土砂を引き剥がさないといけません。 これが随分と手間が食うようです。 更に、その上に戦艦の主砲の直撃を何発も食らわさないと破壊できなかったものもあったようです (あるいは全部こんな具合であったのかもしれません)。 しかし陣地が発見されれば、瞬く間に破壊されていったようですから、艦砲射撃の精度は 極めて高かったと断言できます。このようなことがなされたことは次のような写真を見れば明らかです。 これは破壊された大砲の陣地で、第二章の末尾に掲載されている写真の一つです。

注意

硫黄島戦争はもうレーダーができているときです。そのため、ターゲットを目視して艦砲射撃を することはすでに時代遅れとなっています。 この時代遅れの攻撃をせざるを得なかったのです。司令官たちは不愉快極まりなかったようです。 この目視による艦砲射撃を「至近距離」 (point blank range) と呼んでいます。 拳銃のような場合には「至近距離」 (point blank range) は銃口を相手の体に突きつけるような場合で 絶対にはずさない距離です。 硫黄島における目視による艦砲射撃では、弾道はほぼ直線で、的が静止していれば、はずすはずがないのです。

波による揺れのことが問題となりそうですが、硫黄島でどのようにしたのかに関しては知りません。しかし、 非常に古い時代には例えば次のようにしていました。どこで読んだのか記憶がないので正確には言えませんが、 しくみは非常に単純です。 まず甲板に垂直に立てられた柱のようなものが必要です。 もう一つ、上部からおもりをつるした糸が必要です。船が波によってゆっくり揺れますが、 柱と糸が平行になったときに発射します。この方法では連続的に発射することはできませんが、 少なくとも、原理的には (海が荒れない限り) 波による揺れは問題となりません。 しかし硫黄島ではこのようなことをする必要さえなかったのかもしれません。 弾道がほぼ直線ですから、ターゲットが照準に補足できたときに発射するだけかもしれません。

もう少し付け加えましょう。上陸から 12 日目あたりには、海軍の出番はほとんどなくなり、 「海軍としては穏やかな日」となります。この時点での上陸隊の戦死者は 2000 名程度です。 この時までに、ほとんど日本軍の大砲、臼砲は破壊されたはずで、これで正規戦としての硫黄島の戦争は 決着が付いているのです。だからこれ以上戦うのは無益です。 これ以後の日本軍の死者は、硫黄島の司令官あるいは日本政府によって殺されたと考えるべきです。

注意
  1. この文書では、海兵隊の活躍はあまり書かれていません。 海兵隊によって破壊される陣地も随分あったようですが、残念ながら詳細に関してはほとんど記述がありません。 この文書は一般的な報告書からの抜粋で、一般的な報告書では個々の戦闘は問題とされないようです。
  2. しかし、一つだけ意外な点があります。険しい場所では 戦車は「装甲つきのブルドーザ」の後ろについていく以外に方法がなかったようです。 米軍にとって最後のよりどころが「装甲つきのブルドーザ」とは、まことに意外な事実でした。
  3. 米軍の死傷者に関して付け加えておくほうがよいことがあります。 一般の戦闘員に関しては死傷者は随分いますが、 死傷者の比率がダントツに高いのは衛生兵です。彼らは危険を顧みずに負傷した米兵を 救助しようとしたためです。この点に関しては恐らく日本で語られる硫黄島戦争では 一言も言及されていないはずです。戦死者に含まれる衛生兵の比率は随分高いはずです。 米兵を撃ち倒しても、とどめをささずに放置すれば、そのうち衛生兵が飛び出してくるはずですから、 この場合は狙い打ちできます。こんなことがあったのではないかと思います。

上陸後 16 日頃から海軍は硫黄島から撤退を始めます。仕事が残っていないからです。 しかし、硫黄島の上陸隊の戦死者は最終的には 4500 名程度に膨れます。 どのような戦争であったかが、これで非常に良くわかります。ゲリラ戦です。 正規戦はほとんどなかったのです。小型武器による日本軍の不意打ち攻撃のみが 一貫してあっただけです。大型兵器では日本軍は太刀打ちできなかった。 米軍の艦砲射撃の精度を理解していなかった可能性の方が大きいと思われます。

またもう一つほぼ確実と思われる点があります。 硫黄島を守る日本軍の中に砲撃に卓越している人が少なかったのではないかと 思われる点です。一つには米国海軍の文書の至るところで砲撃が「正確であったり、 不正確であったり」して随分ムラがあるようにみえるためです。 「神風特攻」の操縦士は実際には飛行機を飛ばせるようになればすぐにも 戦地に送られたような人です。 (これは「同時テロ」の犯人像と極めてよく似ています。 彼らはかろうじて旅客機を操縦してビルに激突させることができただけです。) これと同様に硫黄島の日本軍の多くは満足に砲撃訓練を受けていなかったのではないかと 思われます。どっちみち死ぬためです。

艦砲射撃よりは航空機による爆撃の方が効果があると思っている人がいるようですが、 これは間違いです。航空機による低空爆撃を実施できるのは対空砲火を沈黙させた後です。 曳光弾などのトレーサーを使用すれば弾丸の軌跡を目で追えますから、 対空砲火の高度に降下すればすぐにも撃ち落される危険がでてきます。 米軍の文書の中では艦砲射撃と航空機による爆撃を同時に実施することで対空砲火の危険を 回避できることが判明したと書かれています。 但し、大砲が航空機を撃ち落す危険があるので相互の連携はかなり難しくなります。 艦砲射撃を同時に実施すると、対空砲火の精度がずっと悪くなり、航空機がかなり低空に侵入でき、 破壊効果がずっと改善したことが書かれています。

航空機による低空飛行は対空砲火がある場合にはずっと危険なのです。昔、ベトナム戦の最中にベトナム軍の女子中学生が ライフルで低空飛行するジェット戦闘機を何度も撃ち落としたことがあります。 これは嘘みたいな話ですが本当にあったことで、以後米軍のジェット戦闘機は低空飛行をしなくなりました。 英字紙に載っていた話です。

何故、日本軍の文書がなかったのか ?

「第四章 諜報」の 4-2 に日本軍の文書が全然残っていなかったことが 最高司令官によって指摘されています。最高司令官は全然見当が付かず、 的外れな推論をしています。

本文中の訳注にも記載していますが、これは「沖縄で集団自決の命令を書いた文書が残っていない」 ことと密接な関連を持っています。 「玉砕命令は戦争犯罪になるかもしれないから書いた記録が残されなかった」ということは 半世紀前私が小学生だったときには常識でした。

現在文書が残っていない以上そのような命令があったわけがないなどと言う 歴史学者がいることや、それが当然であるかのように主張する記事が 2008 年の 11 月頃に産経新聞に 掲載されていました。そのときは以上の事実を思い出さなかったのですが、 米国海軍の文書を訳している間に思い出すことになりました。 当時の大本営のやり方はとても卑劣なのです。 平気で玉砕命令を与える一方で、いざ降伏せざるを得ない場合に自分たちの保身を 考えていたのです。

注意
  1. もっとも「玉砕命令は戦争犯罪になるかもしれないから書いた記録が残されなかった」との言質は 大本営に対しての賛辞と共に語られていたと思います。 この点は少しはっきりしないのですが、多分「天皇が戦争犯罪で裁かれないようにしたのだ」 と述べていたのだと思います。第二次大戦中に日本人は天皇の名のもとに 日本人を余りに大量に殺していますから、 その点から戦争犯罪とみなされると自認していたのではないかと思います。
  2. 歴史学者、あるいはそれを引用して論を展開している産経新聞ですが、 「書かれていることのみこそが事実である」ことを前提にしています。これは正しいでしょうか ? 例えば、ワイロを受け取った政治家は領収書を書くでしょうか ? もしも、 書かれたことのみが事実であれば、ワイロで有罪となる政治家は一人もあるはずがありません。 誰もワイロの領収書を書くはずがないためです。通常記述された証拠はないと思われます。 有罪となるのはそれ以外の根拠からです。
  3. 書かれていることは事実でしょうか ? 封建時代には支配者の批判は書くことができませんでした。 陰陽道の安倍清明を思い出してください。彼は天気予報もしていますが、 常に的中したそうです。これは記述された歴史です。それに反して、現代の気象庁の 予報は外れてばかりです。記述された歴史からは、現在の気象庁は安倍清明に到底及ばないのです。 どうしてこうなるのでしょうか ? 封建時代では偉い人の言っていることは常に正しく、 断じて批判してはならないからなのです。 現代では、気象予報は大体当たっているようにも見えますが、批判する人の方が多いため、 予報は全然当たっていないのです。 産経新聞の言い分では「昔の人は偉かった」であり、「陰陽道」が「気象庁」に取って代わるべきである との論を提示しているのに他なりません。

第二次大戦中にドイツではユダヤ人が多く殺されました。 日本では日本人によって多くの日本人が殺されました。 どちらも殺人に他ならないのです。 ドイツではナチを美化するような発言をすればそれだけで犯罪であり、実刑判決です。 これは言論の自由の埒外のことなのです。 残念なことに、日本ではこれとちょうど逆なことなっており、靖国議員が大手を振っている始末です。 本来、第二次大戦中に日本がした犯罪行為を美化することは犯罪とみなすべきなのです。 硫黄島の玉砕命令を出した大本営は犯罪者であり、 栗原中将も犯罪者であるとみなすべきなのです。

追加
2008 年の 11 月頃に出た産経新聞の記事では、 当時沖縄に在留した日本軍の将校らしき人が、「玉砕命令などなかった」、 「日本人が日本人を殺す命令を出すわけないじゃないか」 などのたわけたセリフを言っていたことを思い出しました。 少し話がそれそうですが、私が小学生の頃に読んだ子供向けの「古事記」、「日本書紀」 に言及する必要があります。人殺しの話ばっかしだったことを覚えており、 二度と読まなくなりました。天皇、貴族、侍は支配者で外国から来たわけです。 彼らは日本人殺しをすることによって、日本国を作るわけです。これが建国の精神なのだと思います。 このようなことが直接「古事記」、「日本書紀」に書かれていたわけではなかったと思いますが 関連してこのような話を読んだというべきです。 このような世界では日本人殺しは美徳であり、英雄であり、神となる資格を得るのです。 殺しばっかしやっていた大国主命は神々しい神なのです。 このような話は最近はほとんど影をひそめましたが、以上のようなことは、 国学、ひいては日本の学問分野の原点であったと思っています。 どこかの田舎の美術館で見た大国主命の絵は多分戦前に描かれたもので、 これは返り血で真っ赤に染まった姿でした。 これが日本人殺しの神々しい神の姿なのだと思います。
硫黄島の戦いの経過

硫黄島の戦争はかなり長引きますが、 輸送機が空港で運航を開始する 3 月 2 日には すでに大勢が決まっていたというべきです。

海兵隊が退却するのはかなりあとにはなりますが、 空港が安全に利用できるようになれば、抵抗勢力が はびこっていようとどうだろうと、大勢には関係しないといってよいと思います。 「硫黄島戦争」の大本営による目的が日本本土の防衛であるのであれば、 米軍が硫黄島の空港を自由に利用できるようになった時点で 硫黄島の防衛は意味を失います。3 月 2 日に第一空港が開港する時点で、 沖縄戦の準備ができたことになります。異常なのはこのあとも無益な抵抗が続く点です。

なお、時刻は日本標準時ではありません。1 時間引けば日本標準時になります。 戦死者の数は上陸軍だけのもので、海軍は含まれていません。 また数値は累積数です。より詳細は「第六章 ロジスティック」の 6-10 を ご覧ください。

                         日付     事項上陸軍
戦死者
D マイナス 32 月 16 日
  • 準備砲爆、機雷などの探索
 
D マイナス 22 月 17 日
  • 準備砲爆、機雷などの探索
  • 米軍が上陸開始と日本軍が誤解して
    ありったけの火器で反応
    上陸用舟艇が被害、ロイツ (駆逐艦 ?) が被弾
  • 東海岸を射程距離に置く大砲陣地の確認
    (5 箇所)
 
D マイナス 12 月 18 日
  • 東海岸を射程距離に置く大砲陣地の破壊,
    アイダホとテネシーの十字砲火
 
D デー 2 月 19 日
  • 0600 時に真っ暗闇の海上に攻撃軍が終結
    (レーダー航行装置を使用)
  • 0900 時に東海岸に上陸
  • うねりと寄せ波により、多くの小船舶が難破、
    浜辺がゴミだらけとなる
  • 夜間ハラッシュの開始
76
D プラス 1 2 月 20 日 264
D プラス 2 2 月 21 日
  • 日本軍の航空機による攻撃
    護衛空母ビスマルク・シーの沈没、
    サラトガが大破
426
D プラス 3 2 月 22 日 不明
D プラス 4 2 月 23 日
  • 悪天候のため水上、陸上の弾薬が枯渇
870
D プラス 5 2 月 24 日
  • 天候が好転し、浜辺掃除が進展、弾薬の補給
1021
D プラス 6 2 月 25 日 1195
D プラス 7 2 月 26 日 1347
D プラス 8 2 月 27 日
  • 硫黄島に水上機の到着、探索救援活動、
1556
D プラス 9 2 月 28 日
  • パラシュートによる補給開始
1616
D プラス 103 月 1 日
  • パラシュートによる郵便物の投下
1845
D プラス 113 月 2 日
  • 西海岸からの荷揚げの開始
  • 輸送機が空港で運航を開始
2005
D プラス 123 月 3 日
  • 任務の解除と撤退の開始
    (日本軍の砲陣地がほぼ破壊)
2278
D プラス 133 月 4 日 2468
D プラス 143 月 5 日 2620
D プラス 153 月 6 日 2715
D プラス 163 月 7 日
  • タスク・フォース 54 が保養のため
    ウルシーに行くように 命ぜられる。
2869
D プラス 173 月 8 日
  • 水上機基地が役目を終了
3055
D プラス 183 月 9 日
  • タスク・フォース 51 の解散
  • 夜間空母エンタープライズが退却
3191
D プラス 193 月 10 日 3315
D プラス 203 月 11 日
  • 残りの全ての護衛空母が退却
3488
D プラス 213 月 12 日 3653
D プラス 223 月 13 日 3765
D プラス 233 月 14 日
  • 0930 時に硫黄島で公式に米国国旗が掲揚
3878
D プラス 243 月 15 日 4112
D プラス 253 月 16 日
  • 中部の飛行場が運用を開始
  • 日本軍の組織化された抵抗の終了 (1800 時)
4206

海兵隊が完全に退却するにはまだもう少し時間が必要ですが、 3 月 17 日には日本帝国を爆撃した帰途の B 29 が硫黄島に緊急着陸しますから、 この時点で硫黄島は完全に米軍に組み込まれたことになります。

3 月 26 日の累積戦死者は 4590 名となります。3 月 3 日には大勢がすでに決しており、これ以後の日本軍、米軍の犠牲はまことに 不毛であるといわざるを得ません。